新東宝株式会社
Shintoho Company, Ltd.種類株式会社
市場情報非上場 / 現在消滅
略称新東宝
本社所在地 日本
東京都世田谷区砧5丁目7-1
設立1947年3月(株式会社新東宝映画製作所)
1948年4月(株式会社新東宝)
業種サービス業
事業内容映画の製作配給興行
代表者代表取締役社長 大蔵貢
主要株主東宝
後楽園スタヂアム
主要子会社新東宝配給
新東宝興行
関係する人物佐生正三郎
田邊宗英
渡辺邦男
特記事項:1947年3月8日株式会社新東宝映画製作所設立[1]。
1948年4月26日株式会社新東宝設立。
1958年2月1日 新東宝株式会社に商号変更。
1961年8月31日に倒産。
1961年9月1日以降、3社に分割。
1964年3月 国際放映株式会社に商号変更。
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新東宝株式会社(しんとうほう)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。 1947年(昭和22年)3月に株式会社新東宝映画製作所(しんとうほうえいがせいさくしょ)として創業、1948年(昭和23年)4月に株式会社新東宝として設立され、1958年(昭和33年)2月に同商号に変更している[2]。1961年(昭和36年)に倒産し、1964年(昭和39年)に国際放映株式会社に商号変更した[2]。 株式会社新東宝が存続した1947年 - 1961年の14年間に800本以上の映画を製作。初期は文芸色が強く、ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した『西鶴一代女』のように高く評価される作品もあった。後期は作品カラーを大きく変え、「エログロ」に代表される徹底した娯楽、大衆路線となる。 同社の倒産以降に「新東宝」を名乗る「新東宝興行株式会社」、「新東宝映画株式会社」とは別会社である。⇒ #倒産後、新東宝映画 第二次世界大戦終結から1年が経過した1946年(昭和21年)11月、第二次東宝争議の最中、東宝の経営者側にも、政治的な労働組合側にもつかないと立ち上がった俳優・大河内傳次郎に賛同した、長谷川一夫、黒川弥太郎、入江たか子、藤田進、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子、高峰秀子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を脱退した。同時に組合を脱退した百数十名の有志とともに、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)敷地外に戦前に増設した「東宝第二撮影所」(のちの国際放映撮影所、現在の東京メディアシティ)を母体にして、4か月後の1947年(昭和22年)3月25日に新東宝映画製作所を創業した。渡辺邦男や斎藤寅次郎らの監督も新東宝に移籍した。第1作『東宝千一夜』、1947年 新東宝映画製作所の創業年のラインナップは、下記の通り[3]。
概要
歴史
東宝大争議
『東宝千一夜』、構成中村福(市川崑)、2月25日公開
『さくら音頭 今日は踊って
『九十九人目の花嫁
『大江戸の鬼
第1作の『東宝千一夜』は、東宝作品のアーカイヴ・フッテージを「十人の旗の会」メンバーを中心に、市川崑が「中村福」の偽名で再編集したものであった。本格的な製作は、渡辺邦男監督、長谷川一夫主演の『さくら音頭 今日は踊って』からである。いずれも、東宝が配給し、争議による製作不能に陥った東宝のプログラムを埋めていった。 1948年(昭和23年)4月26日に株式会社新東宝として正式に設立[2]、社長には、元東宝営業部長で「配給の神様」こと佐生正三郎が就任した。この新会社は、「新東宝による製作、東宝による配給」という形で、実質的なストライキ破りの機能を果たして東宝争議の最中の東宝を支えた。 しかし、東宝争議は1948年10月を以て一応の終結を見た。これにより、東宝と新東宝の関係の調整が必要となった。ここで東宝が事実上の子会社である新東宝の社長を佐生という大物に託したことが裏目に出た。話し合いの中で新東宝は「映画製作はすべて新東宝に任せる」「製作のため砧撮影所を新東宝に貸しスタジオとして一か月一〇〇〇万円で提供する」などを提案。東宝内部の意見は割れたものの、最終的に東宝の渡辺銕蔵社長は新東宝の提案を受け入れた[4]。
新東宝設立と『私刑』事件